1917年(大正6年)、河本緑石は、宮沢賢治、保坂嘉内、小菅健吉等と同人文芸誌『アザリア』を発行し、お互いに影響を及ぼします。 卒業後、緑石は故郷鳥取へ帰り、県立倉吉農業高校で教鞭をとるかたわら、俳句、絵画、作詩など幅広く才能を発揮。
大正13年、同じように農学校で教鞭をとる宮沢賢治から、処女詩集『春と修羅』や『注文の多い料理店』が贈られ、感動した緑石は詩集『夢の破片』を出版し、賢治の友情に応えたのです。
そんな緑石ですが、昭和8年夏、海水浴訓練中に溺れた同僚を救助に向かい、37歳で帰らぬ人となってしまいます。その死は、同じく自由律俳句運動の中心の荻原井泉水の門下生だった種田山頭火にも衝撃を与えました。その想いは亡くなった八橋海岸の供養塔に刻まれています。
緑石の死から2ヶ月後、賢治もこの世を去りますが、賢治の遺作『銀河鉄道の夜』の中で、溺れる友を救って亡くなる“カムパネルラ”は緑石がモデルではないかと賢治研究家の中でよく言われているのです。
緑石はただ才気ある詩人であっただけでありません。 家庭においては良き父、学校においては生徒や同僚に気づかう良き教師でもあり、その生涯は大変すばらしいものでした。
緑石は当時、福光の村において、自転車を所有する唯一の人士であり、倉吉農学校教員時代、毎日それで通勤していました。緑石が、水泳の授業中溺れた同僚を助け、自ら帰らぬ人となったその日の朝のこと。 いつもと同じように自転車に乗った緑石は、何故かその朝に限って幾度も自転車を止め、いとおしそうに、去りがたいように、自らの家を振り返ったといいます。
宮沢賢治作『銀河鉄道の夜』の中に、カムパネルラが、「おっかさんは、ぼくをゆるしてくださるだろうか」とジョバンニに向かって言う場面があり、ジョバンニは知らないが、カムパネルラはこの時点で、すでに溺れた友人を助け、自身は水死してしまっているのです。その彼が、ただひとつ「母」に対してはすまないと思うのです。彼のその姿、その死因は、最後の日の緑石とあまりにもよく重なるのではないか、カムパネルラは緑石である、と推測されるゆえんなのです。